愛情の在処について
料理はこまかく手作りでなければ愛情が足りない、というような意見ってよく見るんだけど、その「手作り」とは、どこからどこまでを”最終的に提供する人”が担えばそこに”愛情”が生まれるのか。
「うちのちいさな女中さん」という漫画がある。
昭和初期、”文化住宅”と当時呼ばれていた西洋風の家に住む女性作家と、その家に女中としてやってきた少女の物語。
少女はこの家に来る前、東北(だったかな、違うかも)のお屋敷で働いていた。
そのお屋敷では調理に七輪を使っていた。
女性作家は東京(だと思う。横浜かも?とにかく都)に住んでいる。
おうちは文化住宅。台所には瓦斯が引いてある。
七輪で、炭から火を起こす必要はないのである。
初めて瓦斯を使った女中が、「こんなに楽をしていいのか…!?」と戸惑うシーンがある。
かつては炭から火を起こし七輪で焼いていた魚を、瓦斯でちちんぷいと焼いたら、調理者・提供者から被提供者への愛情は目減りするのだろうか?
私がうんと幼い頃は、お米を炊くのにガス釜を使っていた。
オレンジ色のホース、9時と12時にひねる栓、白くてスンとシンプルな本体。今でも忘れない。
それが電気炊飯器へと交代したのはいつだったろう?
「オカーサンはガス釜をやめた!わたしのことを愛してはいないんだ!」
なんて、あの頃のわたしは思っただろうか?
ガスコンロと電子レンジを併用したら、愛は目減りするだろうか?
IHコンロで加熱したら、愛は目減りするだろうか?
調理済みであたためれば食べられる鯖の味噌煮を食卓に置いたら、愛は目減りするだろうか?
今まないたで刻んでいる大根は知らない人が作ったものだけど、そこに愛はないだろうか?
風呂上がりに着せているパジャマはユニクロで買ったものだけど、そこに愛はないだろうか?
知らん工場で組み立てられた車で送り迎えしてるけど、そこに愛はないだろうか?
わたしは、他人が考案して他人が設計して他人が組み立てて他人が配送してくれたパソコンとキーボードを使って、どこからか伝わってきて生まれる遥か前に確立しながら他人の人生によって進化を重ねてきた日本語という言語、その言葉と文法を使い、他人が考案して他人が設計して他人が組み立てたインターネットに乗っかって、この日記をあなたに届けている。
そこに愛はないだろうか?
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