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走るときに私が思っていること

心身の鍛錬ため、
ジョギング→なわとび→筋トレ
のルーティンを行っている。

30分超のジョギングのあと20分ほど縄を跳び、自室に戻って水分補給、最後に「バーン・マシン」1.8kgと共に約5分間の筋トレ…という流れは、体を動かす日の常になりつつある。

ジョギング中は、スマホから伸びたイヤホンを両耳に突っ込み、音楽、ラジオ、落語、だいたい何かしらを聴いている。
体が跳ねて前進していく感覚、心拍数の上昇、荒くなる呼吸、しっとりと濡れていく衣服を感じながら、鼓膜を震わせ内耳に伝わり、頭蓋骨から脳に直接流れ込む音を切れ切れに愉しむ。積極的にマゾヒスティックな行為だなぁ、と思う。

上気する体と脳に流れる音声を同時均一に堪能する時間は、しかし長くない。体の疲労が重なるにつれ、音声が疎ましくなっていく。「音声を処理するために割くエネルギーはもう無ぇよ」と、体が私に伝えてくれているような感じだ。

私はイヤホンを耳の穴に残したまま、音を聴くのをやめる。すると、「もうやめよう」「止まろう」「歩こうぜ」と、心が私に伝えはじめる。そうだなぁ、疲れたしなぁ、と、私は思う。と同時に、体が言う。<まだ行けるんじゃね?> <言うほどこっちは疲れてない> 。心2が言う。[心が言うことをとりあえず吹き飛ばせ]。私は『すわー』と叫ぶ(ほんとに叫ぶ)。すると、心が一瞬どこかへ引っ込む。<よし、まだ行けるな>、と言う体。心2は沈黙する。

これを何度か繰り返したのち、心、体、心2、この3人の意向が『今日は終わりっす』に辿り着き、その時私は走るのをやめる。

不思議である。
私は私だけでできている訳ではないらしい。

こういった体験は、よくよく思い出し考えれば、走るときだけに起こるものではない。

心の疲労、体の疲労、私の疲労。
体が動いても、心が疲れている時。心が健康でも、体が言うことを聞かない時。心と体は元気な気がするのに私はやる気が起きず、ボケーとスマホとにらめっこしている時。
3つは太いパイプで結ばれているが、イコールではないようだ。

私という人間の司令塔が、一体どこにあって、何者で、本当は何をして欲しいのか、歳を重ねるほどにわからなくなっていく。

ほんの最近まで 「私」はひとつの人間だった。
しかし今は、いろいろな意志をもったいろいろな意識の集合体であるように感じている。

それはひどく不思議でもどかしい。
思うようにいかず、思うようにいかせたい、自分勝手な生身の感覚。

そしてそれは、私が走るとき特に感じられる、とても愉快な感覚なのだ。






--------- 小林楓◆活動報告所 http://www.kaedekobayashi.com
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