ツイッターっていうかXでこういうツイートっていうかポストをしました。 「私」はどこにいるのか? 例えば一本の足の骨は私なのか、私のものだが私ではないのか。 その骨が折れたら「私」は折れるのか? 例えば髪の毛の色素。 抜いたら「私」はいなくなるのか? →ならない →髪の色素は私のものだが「私」ではない。 とりあえずここまで これからリハ!行ってきまーす。 — 小林楓/kaede.kbys🐛 (@kaedekobayashi) February 27, 2024 なんでこれを考えだしたのかというと、頭が空いていたタイミングだったっていうのもあるんだけど、ラジオを収録したときに「セクシー田中さん」の件についていただいたメッセージを読んだのが影響していると思います。 この件はまだまだ私たちの記憶に新しいです。 私がこれから書くことであなたを嫌な気分にさせるかもしれないので、読まないでおこうと思う方は回れ右でお願いします。 原作者の先生が亡くなったとニュースが出たとき、ラジオでも言ったんだけど、「死ぬことないじゃないか」と思ったんです。 SNSをやめるなり、漫画をやめるなり、休載していったん俗世から離れるなり、もしくはTV局やドラマ制作側や出版社を相手取って戦うなり、何か取れるアクションがあったんじゃないかって。 でも先生は自分の人生を終わらせることを選んだ。 「野猿」っていうグループが昔いました。とんねるずと「みなさんのおかげでした」のスタッフ陣で編成された音楽グループ。私もめちゃくちゃ大好きで、円盤が擦り切れるくらいアルバムを聴いていたんだけど。 この野猿が解散したとき、自ら命を絶たれたファンの方がいました。 芦原先生にとって「セクシー田中」さんは、野猿ファンの方にとって野猿は、自分の一部だったんじゃないか。 自分の一部が侵害されたり、解散したりしてしまった。 だから命も消えた。 でも客観的に見ると、漫画家と作品は一体ではないし、音楽グループとファンも別物です。 だから、「自分というのはどこから始まって、どこまでをそう呼べるのか」という意味で考え始めたの。 そして考えれば考えるほど、「どこまでも自分で、どこまでも自分じゃない」というところに帰結するのよね。 旧劇場版の綾波みたいなこと言ってますけれど。 上に貼ったツイートの例だと、 髪の毛からもともとの...
小林楓(シンガーソングライター)の日常に関するなんでもない話を書くところです。たまに大事なことも書きます。