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2月27日:「私」はどこにいるのか

ツイッターっていうかXでこういうツイートっていうかポストをしました。 



なんでこれを考えだしたのかというと、頭が空いていたタイミングだったっていうのもあるんだけど、ラジオを収録したときに「セクシー田中さん」の件についていただいたメッセージを読んだのが影響していると思います。

この件はまだまだ私たちの記憶に新しいです。
私がこれから書くことであなたを嫌な気分にさせるかもしれないので、読まないでおこうと思う方は回れ右でお願いします。







原作者の先生が亡くなったとニュースが出たとき、ラジオでも言ったんだけど、「死ぬことないじゃないか」と思ったんです。
SNSをやめるなり、漫画をやめるなり、休載していったん俗世から離れるなり、もしくはTV局やドラマ制作側や出版社を相手取って戦うなり、何か取れるアクションがあったんじゃないかって。
でも先生は自分の人生を終わらせることを選んだ。

「野猿」っていうグループが昔いました。とんねるずと「みなさんのおかげでした」のスタッフ陣で編成された音楽グループ。私もめちゃくちゃ大好きで、円盤が擦り切れるくらいアルバムを聴いていたんだけど。
この野猿が解散したとき、自ら命を絶たれたファンの方がいました。

芦原先生にとって「セクシー田中」さんは、野猿ファンの方にとって野猿は、自分の一部だったんじゃないか。
自分の一部が侵害されたり、解散したりしてしまった。
だから命も消えた。

でも客観的に見ると、漫画家と作品は一体ではないし、音楽グループとファンも別物です。
だから、「自分というのはどこから始まって、どこまでをそう呼べるのか」という意味で考え始めたの。

そして考えれば考えるほど、「どこまでも自分で、どこまでも自分じゃない」というところに帰結するのよね。
旧劇場版の綾波みたいなこと言ってますけれど。

上に貼ったツイートの例だと、
髪の毛からもともとの色素を抜いても「私」はなくならない。
だから髪の毛の色素は「私」そのものではない。
そして色素の抜けた髪へ別の色素=カラー剤を入れることで「私」に近づいた、「私」を実現した、と思うことがある。
つまりそのカラー剤は、まだ手に入れていない「私」の一部だったということにならない?

「私ってこういう人間だから」と決めると、それがどんどん枷になって、自由が失われていく感覚があります。
私は私の中にあるけど、私の外にもある。

ちなみに飛んでいる鳥を見たとき、その鳥の目が見下ろす世界を目の奥に投影すると、めちゃくちゃ頭が痛くなります。
鳥が見下ろしているだろう世界を、自分の目でも見るの。想像するんじゃなくて見る感覚。
そうすると頭痛くなる。
「私」の範囲を広げるにも限界があるということかな。

もう疲れてきたのでやめる笑
結論や答えを出したいのではなく、考えること自体が目的なので〆はナシ!



かえで

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